元徳4年・元弘2年3月7日(1332年) 鎌倉幕府、後醍醐天皇を隠岐国に流す

元徳4年・元弘2年3月7日(1332年4月2日) 鎌倉幕府、後醍醐天皇を隠岐国に流す。翌8日尊良親王を土佐国に、尊澄法親王を讃岐国へ流す。(武家年代記)

後醍醐天皇は、1324年(正中元年)に倒幕の謀略を進めたが六波羅探題にバレて、側近らが多数逮捕(正中の変)されて失敗。1331年に再び倒幕計画を進めていたのが密告され、天皇は笠置に逃げて立て籠もり、全国に倒幕の蜂起を呼びかけた。そのため、幕府は大軍を送り、笠置で天皇を捕らえ、隠岐島へ島流しにする。

しかし、護良親王や楠木正成らの倒幕の動きに呼応して、翌年1333年(元弘3・正慶2)閏 (うるう) 2月に、天皇は隠岐を脱出。5月に新田軍により鎌倉幕府は滅亡し、6月に京都に戻った。その後、建武の新政を開始。

後醍醐天皇がみずからの手のひらを朱で押した四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)が根本本とともに、国宝(大阪・四天王寺蔵)。後醍醐天皇宸翰御置文(元弘三年八月廿四日)が国宝(京都・大徳寺蔵)。後醍醐天皇宸翰天長印信(〓牋)(延元四年=1339年)六月十六日弘真跋)が国宝(京都・醍醐寺蔵)。

国宝「四天王寺縁起」は、2021年に大阪市立美術館、サントリー美術館で開かれた「聖徳太子 日出づる処の天子」展の図録によると、四天王寺縁起(根本本)は、推古天皇三年(595年)に聖徳太子自らが四天王寺の縁起を書写したものと奥書に書かれ、その”証拠”として手のひらが26か所も押されています。四天王寺にとっては最重要の宝物です。

ただ、この根本本は、寛弘4年(1007年)に四天王寺の僧侶の慈運が金堂内の六重宝塔で”新発見”されたもので、図録でも「現在の研究では内容や書体などから、寛弘四年の発見時に聖徳太子に仮託して書かれたものとみられている」と明記しているように、平安時代(11世紀)のものとなっています。聖徳太子信仰は、法隆寺や四天王寺だけでなく、平安時代になって、太子信仰として特に天台宗が聖徳太子を法統に位置づけ、また平安時代に大ブームとなった浄土信仰でも聖徳太子は超重要人物として信仰の対象になりました。その際、四天王寺としては、「元祖」聖徳太子のお寺という意味づけを求められた結果の「発見」というのが現実でしょう。

ともかく、11世紀以降、この手のひらが聖徳太子が押したものと認識、信仰されてきたのも、また歴史的な現実であり、国宝として「根本本」とセットとなっている「後醍醐天皇宸翰本」が生まれることにもなります。

後醍醐天皇は建武二年に根本本を閲覧し、聖徳太子に感銘を受けました。もちろん、聖徳太子や推古天皇が天皇親政を行っていたからです。そして、後醍醐天皇は、それを書写して、自分の手のひらをドンと押したのです。

 

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